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その一
ペルー報告 その三 : 神々の住居マチュピチュ
今回の旅の一番の目的だった“マチュピチュ”について書きます。
文章がマジになってしまって少し読みにくいかと思います。
スミマセン……
インカ帝国は十四世紀頃に興り、南はチリ北部から北はコロンビア南部まで支配した帝国である。
政治経済の発達し文化レベルの非常に高い強大な帝国であったにもかかわらず、
16世紀、ピサロ率いるスペイン軍に侵略され、たったxx年で(1532年に)征服されてしまった。
しかし、1532年以後もインカ族はアンデスの山奥に立て篭もり、反抗を続けた。
所在不明の“ビトコス”と呼ばれる聖地で、皇帝の下に太陽の神像を守り、1572年まで帝国を存続させた。
そして、最後の皇帝が処刑された後も、隠された都とその秘宝は発見されることが無かった。
──見上げるほどの高峰上にジャングルに覆い隠された都が発見されたのは、340年も後、1911年の事である。
都から財宝は発見されず、住居跡にも人々の痕跡はなかった。
ただ、墓地跡の洞窟から173体のミイラ(それも老人と女性のみ)が発見されただけである。
このため、インカの人々はここからさらにアンデスの奥深く隠れたのだと言われている。
しかし、史実からすると、最後の皇帝トゥパック・アマルーがスペイン人との決戦に赴く際、
隠された都の秘密を守るため全ての非戦闘員を殺し、黄金を運び去ってしまったというのが真相のようだ。
この、1911年に発見された都が、マチュピチュである。
(“マチュピチュ”は発見以前からの山の名前である。)
この都は崩壊した山の跡に築かれている。
大小の岩が転がる尾根状の一帯に数十段の石垣を組み、その一つ一つの中を砕石と土砂で埋めて水平にし、
“突如”とでも表現すべき唐突さで都市を創り出している。
何の記録も発見されていないにもかかわらずインカの遺跡であると判定されたのは、
街が、インカ帝国の他の都市と同様の設計で造られていたからだ。
実際その後の調査で、ここから他のインカ都市に向けて石畳で舗装されたインカ道が
山中を縦横に通じている事が分かっている。
その道のほとんどは未調査である。
何処ともなく消え去っているとしか分かっていない。
このマチュピチュが伝説のビトコスであるか否かは未だ判定がついていない。
膨大な未調査区域の調査完了を待たねば、正確な結論は下せないらしい。
マチュピチュは、興味を持つ人間の間では余りに有名で、
数多くの写真に紹介されテレビ番組として何度も放映されおり、“おなじみ”の感じがある。
実際、迂闊にツアーに参加してクスコから日帰り観光などした場合は、
“テレビと同じだった。”で終わりかねない。
筆者も、ガイド付きで回った最初の一日は“予想と寸分違わないな……”と、
さして深い感動を持たぬまま終わった。
しかし、二日三日と周辺の廃墟を歩き回るうちに、
マチュピチュの驚異が身のうちに大きなものとして膨らんできた。
蛇行するウルバンバ川に囲まれた標高差400mの尾根の上にマチュピチュはある。
北西と南東をウルバンバ川に肉迫され、特に街の北西端はそのまま400mを崩れ落ちる崖となっている。
北西部は、さらに450mの標高差でそびえるワイナピチュ峰へと繋がっており、
その周囲をウルバンバ川が囲んでいる。
この部分はすべて崖と言っても過言ではない。
ワイナピチュ峰の頂上周辺にある住居跡のテラスから身を乗り出すと
900m下のウルバンバ川の輝きが真下に見える。
間を遮るものは見えない。
この住居跡は無謀としか言いようのない急な岩壁に作られており、
にもかかわらず400年後の現在も崩れ去っていない。
住居跡だけではない。
歩いて下ることさえ躊躇われる急斜面には段々畑が築かれている。
住居跡と違い、壁のない広い空間に開け放たれた畑に立つと、まるで自分が天空の住人かのような気分になる。
右にも左にも下にも、そしてもちろん前にも、数百メートル〜数キロメートルに渡ってなにも存在しない。
背後にほんの数十メートル分の岩塊があるだけだ。
頂上まで二十メートルも無いのだ。
……ここを神々の住居と言わずになんと呼べよう。
──ワイナピチュの住居跡は、ウルバンバ川が最も山に接近する部分にある。
川岸から頂上までほとんどが岩壁である。
この位置から真正面にウルバンバ渓谷が伸び、住居跡からの眺望は素晴らしい。
この、日本で言えば剣岳か槍岳のような岩塊の斜面を、マチュピチュからインカ道がのびている。
山上の岩壁に石垣を組んで段々畑を作れるほどの人々にとって、
整備された登山道を作ることぐらい何でもない話だ。
道は、岩山の上をさらに北へとのび、そこには月の神殿と呼ばれる遺跡がある。
ただし、残念なことに今は通行禁止である。
三方を囲まれたマチュピチュへの主道は南西の尾根伝いにある。
幅二メートル程度の立派な石畳のインカ道が急斜面の上に築かれている。
道の下には、所々段々畑が作られている。
あるいはそれらは道の補強用石組かもしれない。
観光用のバス道はマチュピチュ東北部の斜面に無理矢理切り開いた九十九折れである。
山麓のプエンテルイナス駅から、四駆の小型バスがこの急嶮なダートを観光客満載で強引に登る。
ちなみに、ウルバンバ川沿いの鉄道はかつてのインカの王道の上に築かれたものだ。
インカ時代の道の作り方と現代のそれの間に人間性の大きな違いが感じられる。
マチュピチュには、主道の他にいくつかの裏道が存在する。
一つは南西部の崖をかつてのインカの王道に向けて下っている。
もう一つは、その南西部の崖をトラバースするように横に延びている。
崖の上や中途にうまく石垣を組んで、細い道がウルバンバ川を見下ろしながら続いている。
そして、その道は、数百メートルの巨大な一枚岩の中途へと消えている。
一枚岩の中程、道の延長に当たる部分には、途切れながら横一線に草つきのベルトが走っている。
とても、人間の通れそうな所ではない。
上も下も200mばかりは真っ直ぐな一枚岩である。
超一流のクライマーでなければ、アプローチできない。
もし、それがインカ道の跡だとすれば、インカの技術者たちはとてつもないスペシャリスト集団だ。
いや、それがインカ道でないとしても、途切れている部分からは一枚岩の端を上へと巻き道が続いているに違いなく、やはり恐るべき技術だ。
現在これらの道を歩いているのは観光客である。
クライマーではない。
本来ならば山慣れた人間にしか歩けないような断崖に石垣を組み、だれもが歩ける道にしてしまっている。
(実際、岩壁に組まれた石垣を直ぐ近くまで寄って調べてみても、なぜ崩れないのかよく分からない。
恐らく岩壁の側にも溝をきって組んであるのだろうが精緻な細工である。)
驚くべきなのはこのインフラだ。
マチュピチュは、モニュメントではない。
そこには、貴族達神官管達と共に、技術者達、農民達が住み、日々の営みをしていた。
恐らく周辺の遺跡をつなぐ道や急斜面の段々畑を、技術者達は日常の業務として築いていたのだろう。
そして彼らの築いた絶壁の上の畑で農作業をしたのだろう。
──何故にこれほどの技術を身につけ地面よりは空に近い山上に街々を築いたのだろう。
何故に山上の街を尾根道でつなぎ、あたかも地上の人々とは別種の存在のごとき日々を送ろうとしたのだろう。
スペイン人の眼から逃れるだけのためには余りに技術力が高過ぎはしないか?
インカを征服したピサロにさえインカの王道を指して“これほど立派な道は本国にさえ存在しない”と言わしめている。
これ程の民族が本当に滅び去ってしまったのだろうか?
──今でもアンデス山中は、インディオ以外足を踏み入れたことのない地域の方が多いという。
そして、そこには隠された都ビトコスがあり、インカの末裔が黄金に囲まれて暮らしているという。
……それも、あながち伝説とは言い切れないのではなかろうか。
そんな思いを抱かせる遺跡群である。